2012年5月号 【96】 |
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こんなことを書いてしまうと、頭がどうかしているんじゃないかと思われてしまうかもしれないが、十代の頃、「当たり前の感覚」というものがいったいどこからやってくるのか、気になって仕方がないときがあった。それは、例えば、「コーラのCMを見ると、なぜ、さわやかな感じがするんだろう」といった類のもので、当たり前に認識していることの根拠を突き止めたい気持ちから来ていたように思う。
明るい日差しのもと、コーラを手にした若い人たちが笑顔で戯れている様子がスローモーションで繰り広げられ、「さわやかテイスティ」というコピーが短い歌のフレーズのなかでさりげなく強調される。こうしたCMが際限なく反復され、さわやかさといえば、即座に黒褐色のあの液体を連想してしまうほど、「コーラ=さわやかさ」というイメージの刷り込みが完遂されていく。しかし、なぜ、笑顔の若い男女のスローモーションの映像がさわやかなものと結びつくのか。そうしたことが知りたかった。
当たり前のこと、たとえば、世間一般で常識と呼ばれていることや、社会通念として広く受け入れられていることは、大前提として「だいたいそういうもの」といった塩梅で認識されているように思うが、その「だいたい」の感じは、なぜ、そうしたところに収まっているのか、本気で疑問を感じていたのだ。ひょっとしたら、目に見えないところでそんな風に思わされてしまうような、巧妙な仕掛けが施してあるんじゃないのか。自分で無自覚に思ったり、感じたりしていることの背景には、何か大きな力が作用しているんじゃないのか(病的レベルの妄想としかいいようがない)。
いまにして思うと、じつにどうでもいいようなことに妙にこだわる、ひまな学生生活を送っていた面倒くさい自分に説教のひとつでもしてやりたい気分だが、そんな時に、救いを求めるようにして手にした本が「共同幻想論」だった。
結果的に、自分がわからなくなっていたのは、「常識」というものの生成過程のほうに近く、ほぼ同じ時期に読んだ中村雄二郎著の「共通感覚論」のほうが、参考にはなったように思う。だけど、思わぬかたちで手にした「共同幻想論」の発想のシャープさ、鮮やかさ、そして文章の美しさに心を奪われ、本来の疑問などどうでもよくなってしまうほど惑溺するように読んだことだけは覚えている。吉本隆明氏逝去の報に触れ、そんな愚直な十代の頃の自分のリアルな感覚が図らずも立ち上がってきて、赤面した。
( II )
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