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最近、「小説の時間」というものが気になっている。たとえば主人公が自分の部屋に帰るとする。ドアを開け、まず目に入るのがテーブルの上に置かれた飲みかけのコーヒーカップ。目を転じると、窓の外に見える葉を落とした銀杏の木。そして視線はまた部屋に戻り、壁に掛けられたカレンダー。21日に赤い丸がつけられている。この速度をまどろっこしいものと受け止めるか、快いものと感じるか。
自分としては後者なのであるが、このところ小説を読んでいて、なかなか自分の生理にフィットした「時間」に出合うことが少ない。
小説の中に流れる時間、それは作者が書き込む描写の多寡で決まると思うのだが、かつて大学でフランスのヌーボー・ロマンを学んでいたとき(あくまでも「学んで」いたのだ)、その時間の進み具合に難渋した記憶がある。つまり顕微鏡で覗くようにひとりの人間の行動を描写する。もちろんそこでストーリーは停滞し、時間軸さえもひっくり返ったりする。もとより如何に語るかへの問いかけから生まれた試みなので、そこでは楽しみより実験が優先していたのだが、そのときの読書体験はけっして快いといえるものではなかった。
ライトノベルといわれる、またはそれに近いものを読む機会が増えている。ライトノベルは絵のついている小説ですと、それに携わる現場の人から聞かされたことがあるが、この定義はなかなか明快だと思う。ビジュアルがあるぶん、描写は少なくなる。さきほどの時間の概念でいえば、より速い時間が物語の中を流れている。この時間を快いと感じるか、あわただしいと思うかは、もちろん読者しだいで、現にこのスピーディーさが活字を追う読者を近年増やしているとも考えられる。
小説は昔から人間とは何か、その存在を突き詰めていくものだと「学んで」きている。この古めかしいテーゼに縛られた小説読みにとって、正直に言えば最近のスピード化は少々しんどい。そこで描写されなかったものが、妙に気になったりしてしまう。もしかしたら自分が時代遅れになってしまっているだけなのかもしれないが、いまさらモデルチェンジできる器用さも持ち合わせていない。そういえば、ドストエフスキーもフォークナーも書店の棚でとんと見かけなくなった。さあ今日はひさしぶりに自分の書架からロブ・グリエの小説でも取り出して読んでみることにしようか。
( I )
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